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いじめる子たちも不安 【青二才の哲学エッセイ vol.30】

問題提起編

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2020-07-19 13:09:28

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人間関係

観念

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 中学1年の終わり頃から2年の途中まで、いじめを受けていたことがある。ふとした言い合いで私が泣いたことが引き金になったと、今でもはっきり覚えている。元々喜怒哀楽の感情の波が表に出やすい人間だ。それからというもの、周りの子は面白がってあの手この手で私を泣かせようとしてきた。私をからかうことが一つのエンタメになっていたように思う。周りは面白くても私にとっては地獄だ。なんとか泣かないように、強くあろうと必死だった。よくまあ学校に通い続けたものだ。

 私に対するいじめがなくなった原因はよく覚えていない。私が泣かなくなったことが面白くなくなったからだろうか。でもその後も私の中にトラウマは残った。笑い声が聞こえてくると私に対して笑っているのではないかとひどく緊張してしまう。会話の中のちょっとしたいじりでも「またいじめられるのではないか」と感じ壁を作ってしまう。完全にこうしたトラウマが消え去るまで10年近くを要したのではないか。いや、またふとした瞬間にあの時の感情がフラッシュバックしてくるかもしれない。それは私にも正直わからない。

 いじめは人生を変える。絶対にあっていいものではない。いじめのトラウマがなくなった今、ようやくいじめについて冷静に向き合って考えられるようになってきたように思う。そんなことを感じていた折、哲学者ヘーゲルの言葉を目にした時に、いじめが起きるそのメカニズムについて少し合点がいったところがある。あくまで私の個人的な解釈であるのでご留意頂きたい。


―「意志」は、自分が欲求によって規定された存在であるという自己意識を持つ。それによって「意志」は「人格」として現れる。
初め、人格は、抽象的な意味で自由であるにすぎない。そのことを自覚するとき、人格は、自由を現実のものとするよう促される。その際、自分の外側にある対象を自分のものにすることで、自由を実質化しようとする。これを対象の「占有」と呼ぼう。
だが、単に対象を手にしているだけでは誰かに奪われかねない。占有には「偶然性」があるのだ。不安定な占有を、自由が展開するプロセスの基礎とすることはできない。―
(「本質がわかる哲学思考」(平川卓 KKベストセラーズ P.168)より)



 これを読んだ時に、私は、「自分の外側にある対象」を、「人間関係の中で自分が安心できるポジション」に当てはめてみた。そうするとこの文章が、いじめが起きるその場についてもうまく説明しているように見えた。

 何が言いたいかというと、人間関係が不安定な「占有」状態にあるのではなかったかということだ。いじめられる側といじめる側が入れ替わることはよくあった。それは些細なきっかけで起こるものであり、そこには、その時たまたまいじめられない側にいるという「偶然性」がある。いじめること、加担することで自分の立場を維持できる、つまり居心地の良い「自由」を確保できると言えるのではないだろうか。いじめる側の人達に同調することが「いじめられる側ではないんだ」という周りの人達に対する表明になる。
私に対するいじめのきっかけとなった彼は、小学生の頃にいじめを受けていた。私はそれを見て見ぬ振りをしていた。いじめられたくもなかったし、いじめている子とも仲が良かったので、同調していた。加担していたと言っても差し支えない。そうすることが、いじめている子達と仲間であることの表明になっていたのではないかと今になって思う。私にとって居心地が良い立場を守りたかったのだろう。

 また、この「不安定な占有」の基盤として、「学校にいるみんなと調和すべき、仲良くすべき」「周りの空気を読まなければならない」という価値観があるのではないだろうか。日本人には「和」があるとか、協調性があるとかよく言われるが、それが全て良い方向に行くとは限らない。「協調性がある」というその瞬間に「日本人として協調性を持たなければならない」という無言の圧力も潜むのではないか。空気を読んで同じようにしなければ、今度は自分がはじかれる。いじめを行なっている子達との関係性が悪くなるのは嫌だ。こうして1対1の人間関係にとどまらず、いじめに関わる人間も増えていく。

 いじめは行う方が悪い。加害者の方が悪い。ただそれはそうなんだけど、いじめというのは流動的なものであるし、また何より、一人一人の心の問題だけに留めてしまうのはナンセンスではないだろうか。私たちの文化、社会的な規範、世間の暗黙のルール、これらの中にもいじめに影響を及ぼしているものがあるのではないか。いじめを行なった子が全て悪くて、その子を教育すれば解決するか、というと私は違うと思う。恐らく子供だけの問題ではない。社会を構成する私たち大人の問題でもあるのではないか。


 前述のヘーゲルの言葉は次のように続く。

―では、どうすればいいか。それは「契約」(=約束)に基づき、占有を「所有」に転換することだ。
所有は、他者との承認関係のもとで成立する。所有においては、これはわたしのものであり、それは相手のものである、という認識が共有されており、力による奪い合いは起こらない。―

 不安定だからこそ、それを守ろうと必死になる。いじめる側も不安なのだ。みんなが安心できる人間関係を築くためには、今の私達にどんな「契約」(=約束)が必要なのだろうか。それをこれから考えていきたい。

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