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「人生、努力ではどうにもなりません」と言うひろゆきさんが、結構努力してるように見えた話 【青二才の哲学エッセイ vol.26】

問題提起編

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2020-06-21 12:10:05

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努力

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観念

幸福

 少し前の話だが、ネット上で「人生、努力ではどうにもなりません」というひろゆきさんの記事を見かけた。さんづけするとピンとこないかもしれないが「元2ちゃんねる管理人」の人だ。私としては、呼び捨てはおこがましく感じてしまうので、ここではさんづけで通させて頂く。

https://toyokeizai.net/articles/-/343981

 簡単にまとめると「一人の人間の努力ではどうにもならない領域がある。成功できるかどうかは努力よりも環境や条件による影響が大きい」というところだろうか。ひたむきに努力することが尊いとされている中で「努力うんぬん言う前に、どこで何をするのか選ぶことをしっかり考えないと成功できないよ」そんなことをアドバイスしてくれている気がする。

 「努力する才能はない」というひろゆきさんである。だが、本当にそうなのだろうか。努力してきていないのだろうか。私としては、そうは言いつつめちゃくちゃ努力してるように見えてならない。2chやニコニコ動画の立ち上げは努力せずにできるものだろうか。少なくとも成功できる場所や方法を考えて選ぶという努力はしているのではないか。「プログラミングに出会ったときに、『これは会社に出勤しなくていいタイプの仕事だ』と直感」したというが、そこを選び取る洞察力、判断力といったものは努力をしないと養えないものではないのか。

 ただ、ひろゆきさんと私では努力という言葉の定義が違う、ということも考えられる。ひろゆきさんの中では努力という言葉は、気合と根性でがむしゃらになんとかするというイメージが強いのかもしれない。とにかく頑張ってなんとかしてしまおうという意味合いだ。こういった考えを持つ人たちに自分の努力ではどうにもならない要素が存在するという視点を提示することは意味のあることだと思う。努力できる人にこうした視点が加われば鬼に金棒ではないか。ちなみに私は、努力とは、本人が努力をしている・頑張っているという意識があるなしに関わらず、目標のために行動や思考を積み上げている状態だと捉えている。

 私にそういう考えがある上での推察であるが、ひろゆきさんは「努力をしているという感覚」がなかったのかもしれない。頑張っているという感覚がなかったのではないか。楽しんでいたのか、自分がやるべきことをやっただけという感覚だったのかはわからないが、あれよあれよという間に思考と行動が積み重なっていたのかもしれない。そうだとするなら、精神的負荷のかからない思考と行動を選ぶことも大事なのではとも思う。

 なんにせよ、成功した方からは(お金をたくさん稼ぐこと、社会的地位や名声があることが、果たして人生における成功なのかという観点は一旦保留して)、何を、どの順番で、どのように考えて、どのくらいやったからこの成果が得られたのか、そういう「客観的事実」を知りたい。それをもっと発信して欲しいなと思う。(発信に関してはメディアの仕事だろうが。)それらの要素を科学的に検討しないと、どこまでが本人の努力で、どこからが外部環境や生まれ持った才能による差なのかがわからない。こと努力や才能に関することは曖昧でそれっぽい言葉によって判断されることが多いように思う。曖昧な言葉というものは受け取った人の印象に左右されてしまうので、「努力は必ず報われる」と言う人もいれば「才能が全てを決める」と言う人もいて、極端な価値観に様々な人達が苦しむのではないか。努力や才能という言葉の背景に物語が詰め込まれすぎているからこそ、一歩引いたクールな視点が必要だと思う。

 言葉が世界を作るからこそ、安易に惑わされない裏付けが必要だ。

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